軌跡(年表)
軌跡
大正5年5月日本医学専門学校で、入学時の約束通り学校が無試験開業検定資格を取得しないことを抗議した学生の処分をめぐり、理事長と意見を異にした多くの学生が総退学した。しかし医学への道の志は捨て難く418名の学生は各界名士の支援を得て自主的に東京医学講習所を設立した。即ち今日の東京医科大学の歴史は大正年7月「地上に唯四百余名の学生ありしのみ、容るるに一舎だになかりき(原三郎先生)」で始まった。学生に同情した高橋琢也氏(元沖縄県知事)は私財を投げうり、各界名士に理解を求め浄財を集め学校設立の経済的援助に全力を傾注された。また順天堂医院の佐藤進、佐藤達次郎両先生は学生の教育面で支援された。第1・2学年生は物理学校(現東京理科大学)の校舎を借用して講義を受け、第3・4学年生は順天堂医院にて臨床教育を受けた。したがって順天堂医院の科長が教授を兼ねることが多く、また東京大学教授が出勤前の早朝7時から講義された。
当初は、婦人科学を下平尚教授が、産科学を白木正博教授が担当され、大正7年3月には第1回生が卒業した。同年4月11日文部省より東京医学専門学校が許可され、4月13年に開校式が挙行されたのでこの日が創立記念日となった。大正9年には学校は無試験検定試験を受け、これにより日本医学専門学校総退学となった当初の目的が達成され本学の黎明期が終わる。
この頃に活躍された産科婦人科医局員として鈴木達夫(大9)、伊丹源氏(大12、後に助教授就任)、小野義篁(大12)、平井光信(大12)の先生方のお名前が東京医科大学五十年史に記録されている。
年表
大正5年 | 東京医学講習所(主幹:秋虎太郎→高橋琢也(元 沖縄県知事)・学生:418名) 第1・2学年生 物理学校講義 婦人科学 下平 尚 教授(大正5年9月~昭和13年) 第3・4学年生 順天堂医院臨床研修 産科学 白木 正博 教授(大正5年9月~大正11年4月) 第1回生卒業(79名) |
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大正11年 | 産科学 横井 鎌吉 教授(大正11年8月~昭和2年3月) |
昭和2年 | 若松町附属病院開設(昭和4年消失閉鎖)産科学 根本 豊治 教授(昭和2年4月~) |
昭和3年 | 付属病院博済病院失火 再建 |
昭和4年 | 第1期 基礎医学教室落成 |
昭和6年 | 付属淀橋診療所開設 |
昭和7年 | 附属淀橋病院開設 附属博済病院廃止 合併 |
昭和14年 | 産科学 今井 環 教授(昭和14年10月~昭和16年) 産科学 清水 由隆 教授(昭和16年~昭和19年) |
昭和19年 | 淀橋病院 松原分院開設 |
昭和20年 | 松原病院消失 産婦人科 秦 清三郎 教授(昭和20年12月~昭和36年6月) 岩田 正道 顧問教授(昭和20年12月~昭和31年3月) |
昭和22年 | 伊丹 源治 教授(昭和22年7月) |
昭和24年 | 霞ヶ浦病院開設 |
昭和26年 | 財団法人から学校法人東京医科大学へ変更 四年制許可 |
昭和28年 | 産院落成 |
昭和30年 | 六年制医科大学許可 進学課程 第1回生入学 上高地診療所開設 |
昭和37年 | 藤原 幸郎 教授(昭和37年10月~昭和63年) |
昭和32年 | 大学院設置 図書館落成 |
昭和55年 | 八王子医療センター開設 花岡 知々夫 教授(昭和55年1月~平成3年3月)霞ヶ浦 |
昭和63年 | 秋谷 清 教授(昭和63年~平成元年) |
平成3年 | 高山 雅臣 主任教授(平成3年8月~平成15年3月) |
平成6年 | 吉田 啓治 教授(平成6年4月~平成8年11月)霞ヶ浦 |
平成15年 | 井坂 惠一 主任教授(平成15年4月~平成29年3月) |
平成29年 | 西 洋孝 主任教授(平成29年4月?現在) |
令和元年 | 新病院落成 |